ゴールドケア事例
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職員の母が選んだ「終の棲家」──娘として、生活相談員として向き合った13日間
- 掲載日:2025.11.25
- 更新日:2025.12.22
この記事では、私の母が人生の最後の日々を過ごした場所について、お話しさせていただきます。それは、私自身が働くこのホームでした。
「職場に親が入居するとは、どういうことか?」
介護の専門職として、そして一人の娘として、私はこの問いと真正面から向き合うことになりました。
目次
活動的で、強く、優しかった母
母は昭和22年11月2日、四日市市で生まれました。小料理屋を営む家庭で育ち、店の客として訪れた父と結婚。姉と私、二人の娘を育ててくれました。
母は本当に多才で、行動的な人でした。
若い頃に習った洋裁の腕前を活かし、私が小学生になる頃には自分の洋裁教室を開いていました。その後は父と共に約20年間、飲食業を営み、調理師免許も取得。店を閉めた後は銀行でのパート、そして5年近く学童の指導員として子供たちと関わってきました。
健康への意識も高く、カーブスで体を鍛え、一行詩を新聞に投稿することを楽しむ。常に前向きで、活動的な毎日を送っていました。
ただ、そのたくましさの裏で、父を亡くした寂しさからうつ病を患った時期もありました。「うつが不安だから一緒に暮らして欲しい」と頼まれ、私と息子の三人での同居生活が始まったのは、そんな経緯からでした。
これほどまでに生命力に満ち溢れていた母が、予期せぬ病により人生の大きな転機に直面することになるとは、誰も想像していませんでした。
突然の宣告──膵臓癌ステージ4、余命6ヶ月
2023年末から、母は「食べれない」「食べても体重が減っていく」と訴え始めました。かかりつけ医での胃がん検査では「異常なし」と診断され、私たちは一時的に安心していました。
しかし、2024年3月7日。私が夜勤入りの日、母から電話がありました。
「採血の結果が悪いから、付き添いで病院に来なさいと言われた」
病院で合流し、そのまま検査入院に。そして告げられたのは、「膵臓癌ステージ4、余命6ヶ月」という現実でした。
館長に泣きながら「夜勤、遅刻します」と電話したことを、今でも覚えています。
後日、望みをかけて姉と名古屋の膵臓癌専門病院を訪れましたが、「出来た場所が悪かった」と告げられ、改めて厳しい現実を突きつけられました。
壮絶な闘病生活──入退院を繰り返す日々
診断後、母の壮絶な闘病生活が始まりました。
抗がん剤治療とそれに伴う副作用(下痢、口内炎)、胃空腸バイパス手術、抗がん剤投与のためのポート埋め込みなど……。
そしてある日の夜、痛みが急激に悪化。夜勤中だった私の元に息子から「ばあちゃんの痛みがひどいから、今から病院に連れて行く」と電話が入り、母は緊急入院となりました。
病院で新年を迎えた母は、足のむくみや腹水、食事も摂れないほどの体力低下により、抗がん剤治療もままならない状態でした。
岐路に立つ家族──ホスピスか、それとも
治療の選択肢が狭まっていく中で、私たちの前に突きつけられたのは、もはや病とどう闘うかではなく、残された時間をどう生きるか、という問いでした。
そんな中、母から「ホスピスに行くね」と連絡がありました。
病院の相談員と姉から説明を受けましたが、面会時間の制限があること、そして職場と自宅から距離が遠いこと。
私は「介護休暇を取るから家に帰ろう」と提案したものの、母の答えは「家には帰らない。休職してまで迷惑かけたくない。辛い」というものでした。
「あなたのとこなら行くわ」──母の即答
悩んだ末、私は母と姉に、自身の職場である「ゴールドエイジ下之宮」に空きがあることを伝えました。
すると母は、間髪入れずにこう答えてくれたのです。
「あなたのとこなら行くわ」
母がこの決断をためらいなく受け入れてくれた背景には、このホームと母との間に、以前から育まれていた温かい繋がりがありました。
既知の場所への安心感──母と下之宮の繋がり
母は過去に、様々な形で下之宮と関わってくれていました。
学童の指導員として、夏休みと春休みに子供たちを連れて訪問、夏祭りでは、職員たちの浴衣の着付けを手伝いに。
そして、自身の抗がん剤治療中にもかかわらず、デイサービスの料理教室にボランティアとして参加してくれたこともありました。その際には「大変な仕事やな、楽しかったな」と、職員の仕事への理解と敬意を込めた感想を話してくれたことを覚えています。
この繋がりが、終の棲家へと移る母の不安を和らげ、安心感を与えてくれたのではないかと思っています。
温もりに満ちた日々──下之宮での暮らし
入居日。
車椅子で到着した母を、館長と事務員が満面の笑顔で迎えてくれました。母も嬉しそうに手を振り、「お世話になります」と挨拶していました。
母が下之宮で過ごした日々は、病院での孤独な闘病生活とは全く異なる、人間らしい尊厳と温もりに満ちた時間でした。
お風呂に入れたい
私には「母をお風呂に入れたい」という強い願いがありました。訪問診療の医師や訪問看護師の方々が親身に聞いてくださり、アドバイスのもと、機械浴で湯船に浸かることができました。
念願のお刺身
病院では眺めるだけだった食事。闘病中は禁止されていたお刺身が、月に一度の特別食「わくわくご飯」で提供されました。
母は念願だったお刺身を8割も食べ、「美味しかった」「食べれた」と心から喜んでいました。
訪問看護師の細やかなケア
訪問看護師の方々は、体調確認だけでなく、浮腫んだ両足のマッサージや清拭、さらには外気浴にも連れ出してくださいました。
入居後、母はこう言いました。
「病院と違うね。話す相手がいる。職員の元気な声が聞こえる」
この言葉は、母がここで心の安らぎを取り戻していたことの何よりの証でした。
穏やかな最期──下之宮で過ごせたからこそ得られたこと
ゴールドエイジ下之宮で過ごした13日間は、決して長くはありませんでしたが、母にとって、そして私たち家族にとって、何物にも代えがたい、かけがえのない時間となりました。
姉の家族、そして私の息子。駆けつけた家族全員の顔が揃ったのを見届けたかのように、母は静かに息を引き取りました。まるで、みんなが揃うのを待っていてくれたかのようでした。
下之宮での日々が、母と私たち家族にもたらしてくれた価値は計り知れません。
館長をはじめ、職員が笑顔で交わしてくれる何気ない日常会話。治療中ずっと我慢していたお刺身が食べられた喜び。病院では難しかった知人との面会が叶い、社会との繋がりを取り戻せたこと。人の手で温かい湯船に浸かれたこと。亡くなる直前の2日間、泊まり込みで片時も離れず看病ができたこと。
これら一つひとつが、私たちにとっての宝物です。ちょっぴりだけど、最後の親孝行ができたと思っています。
もし、自宅で母を看ていたら、きっと私の心は折れていたかもしれません。痛みにもがき、弱っていく母を前に、職員の前で泣いてしまうこともありました。そんな私を、下之宮の職員の皆さんは静かに支えてくれました。
感謝を込めて──ルピナスの花言葉に寄せて
「下之宮の職員だからこそ、安心して母を任せることができました」「人生の最後が下之宮で良かった」
心からそう思います。
ルピナスの花言葉は「いつも幸せ」だそうです。
この言葉が入居者様とそのご家族様、そして関わるすべての人々に届くことを願っています。